転機
2004年10月3日今日はちょっといつものと違います。僕の過去について書こうと思います。
僕は小学校の頃サッカーをやっていた。本当はバスケがしたかったんだけど小学校の頃にそういったクラブはなく当時Jリーグが出来てサッカー人気があったこともあり、皆入ると言ってたのでサッカー少年団に入った。中学でバスケをしようと思っていたから体力作りのためにも。小4の頃でした。
やっていくうちに結構本気になっていった。僕は何でもやり始めるとムキになるタイプっていうのもあって。最初はやっぱりベンチスタート。それでも同い年の中で何人かは年上の試合にも出てたりしてたかな。その人達は地区や市等の選抜にも選ばれたりもしてました。そんな中僕は練習している内に上達していき、レギュラーに入ってスタメンで試合に出たりも出来たりするようになった。
最初やってたポジションはディフェンス。右バックだったかな。5年生の途中くらいで背高いからキーパーやってみないかと言われ転向したりもしたけど。フォワードやミドルもやってた頃もあり、何点か決めたこともある。初めて決めたゴールはとても嬉しかった。ディフェンスやってたときにハーフラインくらいからクリアしたボールがそのままゴールに入ったり、フォワードでディフェンス抜いてそのままシュート決めたり。
サッカーやってたせいか、前より足も速くなり体力もついた。運動会ではリレーの選手に選ばれたりマラソン大会では上位に入ったり、騎馬戦の大将に選ばれて相手の大将倒したり(まあこれはサッカーやってたこととあんまり関係ないかもしれないけど)。これらも結構嬉しかったのを覚えてる。
小学校を卒業して中学に入学し、コーチにサッカー続けろって言われてたこともありサッカー続けるか最初思っていた通りバスケ続けるか迷ったけど結局バスケを選びました。初めてバスケに興味を持ったのはスラムダンクを読んだ時。正直感動したし憧れた。小学校の時なんてそんなちょっとしたこととかですぐ興味を持つもんだったしね。
そして初めての部活、初めて本格的にやるバスケ・・・のはずだったんだけど当時の顧問の監督がクソ過ぎて先輩達とかもやる気とか微妙でした。3年生の先輩達は自分達の実力だけで結構勝ってたけど。それでも2年の時先生が変わってからは皆変わった。1個上の先輩達は今まで公式戦で勝ったことがなかったらしく新しい先生に泣いて『勝ちたい!』と頼んでいたのを覚えています。最後には先輩達も勝つことが出来てとても喜んでいました。
そんな先輩達の後を継いで僕らも練習を続けました。僕は人一倍練習をしたし、体力作りのトレーニングだって本気で走ったりした。ほぼ毎日部活前には5キロくらいは走ったかな。そのお蔭もあり体力だけは誰にも負けないくらいついた。それは陸上部のエースにも長距離で負けないようになる程。
僕はスタメンに選ばれて試合に出るようになってどんどん成長していった。嬉しかった。そして迎えた中3最後の中体連。僕らは負けた。終わった直後は何が何だかわからなかった。試合後のミーティングのとき副キャプテンが泣いた。あの一度も泣いたことなんかなかった副キャプテンが。その時僕は『ああ、僕らは負けたんだな』って認識した。気付いたらタオルに顔を埋めて僕も泣いていた。
中学を卒業して高校に入った。今までは敵だったはずの他の中学の奴らと一緒にバスケをするのは何だか不思議な気分だった。ランニングの時誰にも負けないはずだったはずの僕は先輩2人に負けた。僕の前を2人も走っている。中学では考えられないことだった。それから僕はまた徹底的に走り込みを始めた。
技術面でも僕なんかより上手い人はたくさんいた。それがまたいい刺激にもなった。初めて知る技術、戦略、新しいことばかりで僕は必死に練習をした。高校バスケ界で180センチというのはそう高い方ではなくセンターだった僕には辛い現実でもあった。それを克服するためにゴール下では片手でプレイ出来るように練習した。フックを使えるようになれば背の高さなんて関係なかったからだ。そのために右だけじゃなく苦手だった左手も練習した。部活の練習後はもちろんのこと、家に帰ってからも自分で作ったゴールを家の外にかけてひたすらシュートの練習をした。100、200本と日が暮れて真っ暗になるまでやった。
練習のお蔭もあり僕はスタメンに選ばれるようになった。シュートを打てば大体入るようになったしウェイトを鍛えたことでゴール下やリバウンドでも負けないようになった。近くの区の体育館に行って練習するときも大学生なんかには負けたりしなかった。
高2の秋。来年の高体連が迫っていた頃。僕は飛躍的な成長を遂げていた。この頃一気に何かが弾けたように僕は自分でも上達を感じていた。部活内の同じポジションの奴には負けるはずもないし、たまに練習に来てくれる卒業した先輩達でさえ圧倒した。これなら高体連でも勝ち進めると僕は思っていた。
高3の頃。高体連を迎えた。でもそこに僕の姿はなかった。僕は高2の10月頃練習中に怪我をしたのだ。何てことはない普段の練習のときだった。センタープレイからディフェンスを抜こうとしたときに相手の膝が僕の左太ももに入った。鈍い痛みが走り僕はその場に倒れた。その日は冷やして何とか家に帰った。帰りの自転車を漕ぐとき大変だったのを今でも覚えている。
朝起きてみると左足が曲がらなかった。パンパンに腫れていたためだ。左足を引きずりながら学校に行くその姿は自分でも情けないなと思っていた。学校が終り病院に行ってみると当たり所が悪かったらしく、血管が傷つき血液からカルシウムが筋肉に流れて筋肉の中に軟骨のようなものができているとのことだった。とてもショックだったのは言うまでもない。
時期も時期だったから僕は高体連に間に合うのか不安に思いながらもその日から部活を休みリハビリに専念した。腫れは数週間でひき、普通程度に歩けるようになった。大分筋肉の軟骨も治療のお蔭で小さくなったもののまだ完全には治っていなかった。病院の先生からは軽いトレーニングならよいと言われ早速僕は体育館に行き、バスケをした。体は重く自分の意思とは裏腹に思い通りには動かなかった。それでも勘を取り戻すために頑張った。
部活にも顔を出すようになった。まだ見学だったけれど。練習試合何かは見ていられなかった。僕の代わりに入っていた後輩などのプレーを見る度にそうじゃないとか僕ならこうやるのにとか、それでも実際に出来ない自分がとても悔しかった。
年が明けて冬休みを終り僕は部活に復帰した。足の方はほぼ完治したのだ。でも怪我をする前のプレーが何一つ出来なくなっていた。体力は落ち息が苦しくあれだけ入っていたシュートが入らない。高体連まではもう2〜3ヶ月しかなく僕は焦っていた。1ヶ月程経っても僕の勘は戻らなかった。3〜4ヶ月も練習できずプレーから離れているとこうも落ちるものなのかとそのとき実感した。スタメンからは外れもう高体連まで1〜2ヶ月。僕は決心した。
退部届けを持って顧問の先生のところに行った。先生にはもちろん止められた。僕に期待していたこと、戻って来たことに喜んだことなどを語られたがそれ以上に僕の決心は固かった。最後にお礼を言って僕は先生を後にした。
僕の前にも怪我などで辞めていった奴らが何人かいたのでその時そいつらの気持ちがわかった。
時は経ち高3になり特にやることもなかった僕は普通に仲の良かったクラスの奴とつるんだりしてた。授業サボって橋の下で煙草ふかしたり。部活やってる間一度も吸わなかった煙草だけどその時僕は初めて煙草を吸った。ある意味これは僕流のバスケとの別れ、ケジメでもあった。
続く。
僕は小学校の頃サッカーをやっていた。本当はバスケがしたかったんだけど小学校の頃にそういったクラブはなく当時Jリーグが出来てサッカー人気があったこともあり、皆入ると言ってたのでサッカー少年団に入った。中学でバスケをしようと思っていたから体力作りのためにも。小4の頃でした。
やっていくうちに結構本気になっていった。僕は何でもやり始めるとムキになるタイプっていうのもあって。最初はやっぱりベンチスタート。それでも同い年の中で何人かは年上の試合にも出てたりしてたかな。その人達は地区や市等の選抜にも選ばれたりもしてました。そんな中僕は練習している内に上達していき、レギュラーに入ってスタメンで試合に出たりも出来たりするようになった。
最初やってたポジションはディフェンス。右バックだったかな。5年生の途中くらいで背高いからキーパーやってみないかと言われ転向したりもしたけど。フォワードやミドルもやってた頃もあり、何点か決めたこともある。初めて決めたゴールはとても嬉しかった。ディフェンスやってたときにハーフラインくらいからクリアしたボールがそのままゴールに入ったり、フォワードでディフェンス抜いてそのままシュート決めたり。
サッカーやってたせいか、前より足も速くなり体力もついた。運動会ではリレーの選手に選ばれたりマラソン大会では上位に入ったり、騎馬戦の大将に選ばれて相手の大将倒したり(まあこれはサッカーやってたこととあんまり関係ないかもしれないけど)。これらも結構嬉しかったのを覚えてる。
小学校を卒業して中学に入学し、コーチにサッカー続けろって言われてたこともありサッカー続けるか最初思っていた通りバスケ続けるか迷ったけど結局バスケを選びました。初めてバスケに興味を持ったのはスラムダンクを読んだ時。正直感動したし憧れた。小学校の時なんてそんなちょっとしたこととかですぐ興味を持つもんだったしね。
そして初めての部活、初めて本格的にやるバスケ・・・のはずだったんだけど当時の顧問の監督がクソ過ぎて先輩達とかもやる気とか微妙でした。3年生の先輩達は自分達の実力だけで結構勝ってたけど。それでも2年の時先生が変わってからは皆変わった。1個上の先輩達は今まで公式戦で勝ったことがなかったらしく新しい先生に泣いて『勝ちたい!』と頼んでいたのを覚えています。最後には先輩達も勝つことが出来てとても喜んでいました。
そんな先輩達の後を継いで僕らも練習を続けました。僕は人一倍練習をしたし、体力作りのトレーニングだって本気で走ったりした。ほぼ毎日部活前には5キロくらいは走ったかな。そのお蔭もあり体力だけは誰にも負けないくらいついた。それは陸上部のエースにも長距離で負けないようになる程。
僕はスタメンに選ばれて試合に出るようになってどんどん成長していった。嬉しかった。そして迎えた中3最後の中体連。僕らは負けた。終わった直後は何が何だかわからなかった。試合後のミーティングのとき副キャプテンが泣いた。あの一度も泣いたことなんかなかった副キャプテンが。その時僕は『ああ、僕らは負けたんだな』って認識した。気付いたらタオルに顔を埋めて僕も泣いていた。
中学を卒業して高校に入った。今までは敵だったはずの他の中学の奴らと一緒にバスケをするのは何だか不思議な気分だった。ランニングの時誰にも負けないはずだったはずの僕は先輩2人に負けた。僕の前を2人も走っている。中学では考えられないことだった。それから僕はまた徹底的に走り込みを始めた。
技術面でも僕なんかより上手い人はたくさんいた。それがまたいい刺激にもなった。初めて知る技術、戦略、新しいことばかりで僕は必死に練習をした。高校バスケ界で180センチというのはそう高い方ではなくセンターだった僕には辛い現実でもあった。それを克服するためにゴール下では片手でプレイ出来るように練習した。フックを使えるようになれば背の高さなんて関係なかったからだ。そのために右だけじゃなく苦手だった左手も練習した。部活の練習後はもちろんのこと、家に帰ってからも自分で作ったゴールを家の外にかけてひたすらシュートの練習をした。100、200本と日が暮れて真っ暗になるまでやった。
練習のお蔭もあり僕はスタメンに選ばれるようになった。シュートを打てば大体入るようになったしウェイトを鍛えたことでゴール下やリバウンドでも負けないようになった。近くの区の体育館に行って練習するときも大学生なんかには負けたりしなかった。
高2の秋。来年の高体連が迫っていた頃。僕は飛躍的な成長を遂げていた。この頃一気に何かが弾けたように僕は自分でも上達を感じていた。部活内の同じポジションの奴には負けるはずもないし、たまに練習に来てくれる卒業した先輩達でさえ圧倒した。これなら高体連でも勝ち進めると僕は思っていた。
高3の頃。高体連を迎えた。でもそこに僕の姿はなかった。僕は高2の10月頃練習中に怪我をしたのだ。何てことはない普段の練習のときだった。センタープレイからディフェンスを抜こうとしたときに相手の膝が僕の左太ももに入った。鈍い痛みが走り僕はその場に倒れた。その日は冷やして何とか家に帰った。帰りの自転車を漕ぐとき大変だったのを今でも覚えている。
朝起きてみると左足が曲がらなかった。パンパンに腫れていたためだ。左足を引きずりながら学校に行くその姿は自分でも情けないなと思っていた。学校が終り病院に行ってみると当たり所が悪かったらしく、血管が傷つき血液からカルシウムが筋肉に流れて筋肉の中に軟骨のようなものができているとのことだった。とてもショックだったのは言うまでもない。
時期も時期だったから僕は高体連に間に合うのか不安に思いながらもその日から部活を休みリハビリに専念した。腫れは数週間でひき、普通程度に歩けるようになった。大分筋肉の軟骨も治療のお蔭で小さくなったもののまだ完全には治っていなかった。病院の先生からは軽いトレーニングならよいと言われ早速僕は体育館に行き、バスケをした。体は重く自分の意思とは裏腹に思い通りには動かなかった。それでも勘を取り戻すために頑張った。
部活にも顔を出すようになった。まだ見学だったけれど。練習試合何かは見ていられなかった。僕の代わりに入っていた後輩などのプレーを見る度にそうじゃないとか僕ならこうやるのにとか、それでも実際に出来ない自分がとても悔しかった。
年が明けて冬休みを終り僕は部活に復帰した。足の方はほぼ完治したのだ。でも怪我をする前のプレーが何一つ出来なくなっていた。体力は落ち息が苦しくあれだけ入っていたシュートが入らない。高体連まではもう2〜3ヶ月しかなく僕は焦っていた。1ヶ月程経っても僕の勘は戻らなかった。3〜4ヶ月も練習できずプレーから離れているとこうも落ちるものなのかとそのとき実感した。スタメンからは外れもう高体連まで1〜2ヶ月。僕は決心した。
退部届けを持って顧問の先生のところに行った。先生にはもちろん止められた。僕に期待していたこと、戻って来たことに喜んだことなどを語られたがそれ以上に僕の決心は固かった。最後にお礼を言って僕は先生を後にした。
僕の前にも怪我などで辞めていった奴らが何人かいたのでその時そいつらの気持ちがわかった。
時は経ち高3になり特にやることもなかった僕は普通に仲の良かったクラスの奴とつるんだりしてた。授業サボって橋の下で煙草ふかしたり。部活やってる間一度も吸わなかった煙草だけどその時僕は初めて煙草を吸った。ある意味これは僕流のバスケとの別れ、ケジメでもあった。
続く。
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